誇り高き日本人(中田厚仁) << プラウドジャパン・ネットワーク

【論説・誇り高き日本人】

「現代青年の威厳ある日本の誇り」
中田厚仁

2011.8.19

━━━危険を顧みず

  • 「I’m dying」私は死んでいきます。この荘厳な言葉を最後に、国連カンボジア暫定統治機構のボランティアとして総選挙実施の支援活動中の中田厚仁さんは、何者かに三発の狙撃をうけ、平成5年4月8日25歳という若さで生涯を閉じました。大阪に生まれ子供の頃商社マンであった父武仁氏の転勤に伴い、4年間のポーランド生活を送りました。その際アウシュビッツ強制収容所を訪問し国際平和に目覚めたと言っています。国際法を学んだ大阪大学卒業後、カンボジアでの総選挙支援のボランティアとして国際連合カンボジア暫定機構に、本来は社会人対象にもかかわらず大卒後としては珍しく採用され、一番クメールルージュと政府軍の衝突が激しいコンボントム州プラサットサンボ郡の郡選挙監視員(DES)として赴任しました。交通事情も悪い中、車が駄目だとカヌーで、それも駄目だと二時間も泳いで各村をまわったといいます。
  • 国際連合ボランティアには、中田さんの廻る地域では沢山の危険情報が寄せられており殺害の噂まで流れていたそうです。この時には日本の警察も文民警察として、自衛隊も派遣されており、警察からはしばらく行動しない方がいいとの助言もありました。文民警察として派遣された高田警視は5月2日にやはり狙撃されなくなっています。ブラサットサンボ郡の事務所には現地の人でさえ訪れなくなったと言われています。それでも中田さんは、選挙に関する説明や選挙人登録など、選挙実施に向けた活動を行っていました。総選挙は、二人の日本人殺害によりボランティアも相次ぎ帰国した中、中田さんの49日法要にあたる5月23日に実施されました。中田さんの担当の地域の投票率は99.99%に達し、カンボジア全土の90%を大きく上回りました。そして投票箱の中からは中田さんへの感謝と賛辞の手紙が多く入っていました。

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━━━中田さんの生前の言葉

  • 『僕は今思います。ポーランドの人たちは、福祉というものをお金持ちが貧しい人に施しをするようなものだとは決して考えていない事です。その考えの底に強く流れているものは、自分たちよりも力の弱いものに対する暖かい思いやりのある心です。
  • ・・・
  • それは、 ポーランドの人たちが戦争という不幸な体験の中で、多くの同胞を失い、財産を失い、生きていくために必要な最低限度のものさえ失った中にあっても、決して失わなかったものです。
  • ・・・
  • 僕が見てきたポーランドの人たちはこう言っていました。「人はパンのみにて生くるにあらず」。僕は今強く思います。僕たちの国の福祉もパンだけであってはならない。』



━━━中田さんの生前の言葉

  • 「だけれども僕はやる。この世の中に誰かがやらなければならない事がある時、僕は、その誰かになりたい」


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━━━誇り高き信念

  • 中田さんの遺体は4月11日プノンペンで葬儀と追悼式が営まれ、4月17日には日本の吹田市でも追悼式が営まれました。遺骨を抱いて帰国された父武仁氏は、報道陣から「政府や国際連合ボランティアからの保証は」「国連による犯人の捜査は」と恨みつらみを引き出させるようなものでありましたが、一切述べず次のような手記を発表されています。
  • 『厚仁のからだは白い布に包まれ、とどめを刺された一撃である後頭部から左目に貫通した銃弾の痕も、それと分からないように包帯で包まれていました。母親がせめて手だけでも握ってあげたいと申しまして、恐れおののきつつ白い布を解きますと、厚仁の手は胸のうえで合掌するように組まれていました。この姿を見たとき、私には、厚仁が私たちの息子であるというよりも何か崇高なものであるような気がしたのです。・・・息子ではありますが、気高い人間性の発露、人間の尊厳を見たような気がして、もう厚仁は私たちのものなどではなく、たいへん気高いものになったという感動を覚えました。・・・信ずるもののためには命を捧げても行動する、という崇高さを持った人間を示してくれたことが、厚仁の救いであると思います。貴いもの、崇高なものが人間の中にはあるということを信じさせてくれた事が。』
  • この親にしてこの子あり。まさしく親としてどれだけの悲しみであるかは想像に絶することであると思います。しかしこの言葉は本当に我が子供に対して誇りを持ったということであると思います。

━━━ナカタアツヒト村

  • 中田さんの功績に対し、カンボジアでは1995年中田さんが殺害された一帯が開発され、7つの村が合併し新たな村が建設されることになりました。そして村民達により中田さんの功績に対し「ナカタアツヒト村」に決まり、政府も「ナカタアツヒト・コミューン」と公式に定め、同時に中田をコンポントム州の最高名誉州民としました。日本では、1993年12月、中田さんの遺族が中心となり、海外で活動するボランティアを支援する目的の特定公益信託「中田厚仁記念基金」が設立されたり、大学時代の留学先の、アメリカ合衆国アイオワ州のグリネル大学では中田さんの名前を冠した奨学基金が設立されています。中田さんの父武仁氏は遺志を引き継ぎ国際連合ボランティア(UNV)の要請を受け、1993年6月から2008年4月まで国連ボランティア名誉大使としてボランティア精神普及のための活動を世界中で行ないました。1996年には、父武仁氏は2001年をボランティア国際年とするよう提案し、1997年の国連総会で承認され、国連公認のただ一人の終身ボランティア大使に任命されています。1998年にカンボジアの「ナカタアツヒト村」に大洪水が襲いました。中田さんの父武仁氏が日本で集めた募金をもとに食料援助を申し出でたところ、村長は
  • 「確かに我々は餓えており今,文字通り,喉から手が出るほどお米がほしい。お腹を一杯にしたい。けれども,これは我慢する。私たちは,中田厚仁さんが世界市民として生きられた,その志を,そして日本の大勢の皆様の温かい心を,私たちの子供たち,孫たち,そして子々孫々に伝えていくために,中田厚仁さんが息を引き取られた地に学校を作りたい。」と述べその募金により村に小学校が建設され、「ナカタアツヒト小学校」と名付けられました。小学校の敷地内には中田さんの名前の頭文字Aを模ったモニュメントが設置されています。さらに村では中田の功績を讃える歌までが作られています。
  • 私はこの話を聞いた時、涙を禁じ得ませんでした。このような若者がカンボジアという地で信念に基づき命をかけてまで活動したこと、まさしく日本の誇りです。もちろんカンボジアも日本での何かの協議会に併せ来日し、協議会に参加できるまでに復興しましたと、中田さんへの感謝を込めた式典を催しています。言うまでもなく一人の青年により親日国が増えたということです。
  • 中田さんのご冥福を心からお祈りいたします。

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写真・資料: 中央公論社からの引用

文: 右京雄一


放送の予定はございません。

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